第三話 生きていたい痕 恐る恐る女の隣に行ってみたが、特に何をされることもなかった。女にとって此処は絶対不可侵の領域ではないようだ。興味を持ったと言ったくせに、拓哉のことなんかもう見ずに女は空を見上げている。 「空が綺麗」 「…綺麗、か?」 見上げてみたが曇りだ。空が綺麗、というのは快晴の時に言う台詞ではないだろうか。灰色の雲があちこちにあって、けれどもまだ雨は降りそうになくて。青い部分も勿論見えるけれども綺麗、と言うほどでもない。 「うん、アタシは綺麗だと思った」 曇り空が好きなのか、と思った。しかし聞くのもなんだか憚られる。先程との温度差に尻込みしているのかもしれなかった。違う人間だと言われたら信じる、双子だとか、今の一瞬に入れ替わったとか。でも違うのは分かっている。そんな不思議は日常に現れない。 気が狂いそうだ。名前も、知らないのに。 「アタシは御園未来(みそのみく)。三年だよ」 思考を見透かされたようなタイミングで自己紹介され、思わず咳き込んだ。女―――未来はそんな拓哉を見て、え、何、と少し引いてみせる。 「もしかしてちょうど名前知らないや〜とか考えてたの?」 そんな能天気な感じではないが大方当たりである。でも言わない。 「…俺は雨宮拓哉。一年」 「アタシの質問スルーかよ」 口調自体は強かったがそこまで気にしていないようだった。 「拓哉って呼ぶね」 決定事項らしい。だから、 「じゃあ俺は未来って呼ぶ」 呼び捨てで返すことであいこ、と思った。先輩だとか、よく分からなかったし。 「先輩呼び捨て?」 「何、駄目? そういうの厳しい系?」 「そういうんじゃないし、駄目とも言ってないけど。ただ、」 「ただ?」 不自然な沈黙が続いた。何かまずったか、と思ったが、 「―――忘れた」 「…そう」 その言葉に甘えることにした。未来はまた空をぼけっと見つめていて、雲間から微妙に射している太陽の光に晒さて、こんなに近くにいるのに消えていくみたいだった。また胸がどきりと鳴る。嫌な音。 「空が青すぎて忘れた」 「…なにそれ」 そのまま未来は座って、ばたん、と後ろに倒れる。 その行動を呆れて見ていると、寝転がれば? と誘われた。 「空がもっと綺麗になるよ」 そんな訳ない、と思った。でも、なんとなく未来の笑顔には従った方が良いことがあるような気がしてしまって、同じように寝転がる。 「空が、綺麗」 やっぱり、空の綺麗さとかそういうものは変わって見えなかった。でも、分かったこともある。 御園未来とは、変なやつだ。 ふと視線が手首に向けられていることに気付いた。 「それ、痛くない?」 制服汚れてるし、と付け足されても、今更隠す気にもなれない。 「何だよ、お前もやめろって言うのか?」 噛み付くような言葉になった。 みんなだ。もう数えるのも忘れてしまった。この傷を見れば口を揃えて、可哀想だと言う。馬鹿みたいだ、と言う人もいた気がする。そんなことは拓哉が一番分かっているのに。 「いや、別に…仮にアタシがやめろって言ったら、アンタ、やめるの?」 返って来た言葉に驚く。 そんなことを言ってきた人はいなかった。 「…やめない、と思う」 「でしょ? やめないんだったら言っても無駄じゃん」 「じゃあ何で言ったんだよ」 「え、別に普通に痛そうだと思ったから」 ただの感想だよ、それにアンタだって痛いって言ったじゃん。 そう笑う未来に改めて思う。 御園未来とは、本当に変なやつだ。 *** 第四話 死んだ人のいくところ ねえ、と暫く続いた沈黙を破ったのは思いの外うっそりとした声だった。ずっと黙って空を見上げていたはずの未来から発されたのは、一体何を見ていたのかと思うほどの甘い響きだった。ぞっとする。 「死んだ人ってさ、何処へ行くんだと思う?」 その大人びた響きに反して投げかけられたのは子供のような疑問だった。それでも色味は引かなくて、また拓哉は温度差に身震いする羽目になる。何なんだろうこいつは、と思うのを振り払って、疑問の方に思考を振った。 死んだ人。 行くところ。 そんなこと考えたことがなかった。死にたいと、口にすることさえあったのに、拓哉はその答えを知らないし理想さえ持っていない。 「ええ、んん、えーっと」 浮き彫りになった自分のちぐはぐさを誤魔化すように呟いて、 「………空の、上。とかじゃね」 やっとのことで返せたのは、そんなありきたりで夢見がちなものだった。 死の先なんて、何もなければ良いのに。何処かで救いでも求めているのだろうか。そんなことを思う。逃げることは悪いことじゃない、そう思う反面、逃げた先には何があるのか? 何もないのではないか? そんな恐怖に襲われる。 未来はこちらを見向きもしなかった。聞いておいて、ただ一言そっか、とだけ。気の抜けたような声。先程のぞっとするような色は何だったんだろうと拍子抜けするほどに。それからまた沈黙。耐えきれなくなって今度は拓哉が口を開く。 「何、会いたい奴でもいる訳?」 言ってからあまりに無神経だったかと唇を噛んだ。しかし、未来だって人の領域にずかずかと土足で踏み込むような真似をしているのだ。本人にとっては踏んだだけ、かもしれないが。けれども拓哉は腹が立ったし、相応の対応をしたって良いだろう。どっちにせよ、言ってしまった言葉は撤回出来ない。二度と。 「うん、まあそんなとこ、かな」 ぼうっとした答えは返って来たが、未来の視線が返って来ることはなかった。 *** |