プロローグ 

 ぽたり、生ぬるい感覚が腕を伝っていく。床に落ちた音が聞こえた気がした。じくじくした痛みが腕から広がって、全身を支配しようとする。でもそれは弱々しくて、そんなことは出来ない。
 そんな痛みに身を委ねながら雨宮拓弥は目を瞑った。普通≠チて何だろう、進路指導の先生の言葉が耳の裏からこだまする。お前は早く普通に戻れよ。何をもってして普通≠ニするのだろう。拓弥はもう、普通≠ナはないのか。楽しいか? 幸せか? 言葉の嵐がだみ声で襲い掛かってくる。そんな難しい問答をしたい訳じゃない。知りたいのはただ一つなのに、誰も教えてくれない。聞く力もない。もう疲れた。ねえ、どうしたら―――

 愛してくれますか。

***

第一話 生々しい傷跡 

 自分の血が廊下を汚した時、思ったのはあー…、くらいだった。緑色をした野暮ったい床に、拓弥(たくや)の血が落ちている。赤、生きている色。まるでクリスマスカラーだ。笑ってしまう。
「…いてえ」
自分でやったというのに、その声は八つ当たりじみていた。
「何でかな…あー…ホント、何やってんだろ」
カッターナイフを握る右手に力が入る。分からない、それだけが自分の中で唯一確かなものだった。どうして雨宮(あまみや)拓哉は自分で自分の手首なんてものを切っているのだろう。
 痛い。それ以外に、何もないのに。
「どうして…」
助けて、そんなことは言えない。
 拓哉の左手首には同じような赤い線が何本もついていた。気付いたら毎日繰り返している行為。今日は一段と深く行ったのか、廊下がぼたぼたと汚れていく。でもこれきっと死なないな、なんて思うのは麻痺なのか。リストカットを始めて一ヶ月ほどになるだろうか。どうして、なんて自分が一番分からなかった。ただ痛いと、そのことだけを考えていられる瞬間は楽だった。その楽さは快感にも似ていて、答えのない疑問が頭を駆け巡る度に同じことをした。もう二度と口にしないように、もう二度と考えないで良いように。けれどもそんなことが出来るはずもなく、逃げるように何度も何度も繰り返す。いつしか、それは拓哉の癖となっていた。朝起きて顔を洗うくらいの日常。毎日。不思議と、嫌な気持ちはなかった。
「バッカみてえ」
それでもこの行為が気に食わない気持ちが何処かにあって、その度にもやもやして。頭に手を当てるとカッターナイフの刃が額に当たった。毎日血で濡れてろくに手入れもしないそれは、もう触れただけで切るような力はない。
「ほんと、何してんだろーな…」
分からない、分からない、分からない、………考えたくない。結局行き着くのはそこばかり。
 ぺたん、と音がした。少しだけ視線を上げると、中学指定のシューズ。この足の主が階段を最後まで昇ってきた音だったらしい。
「あー…どうも?」
屋上へと続く扉の前の踊り場。誰も来ない、自分だけの場所だと思っていたのに。
「誰だよ、てめえ」
一人の女が現れた。
 まず拓哉が思ったのは見られた、ということだった。それは徐々に苛立ちに代わり、語調が強くなる。
「此処は俺の場所だ! 誰も来ないように、札も立ててあっただろ。日本語読めねえのか」
恐らく学校側で作っただろう立入禁止の札。それを丁寧に真ん中に立て直しておいたというのに。
「それ、アタシの台詞なんだけど。っていうか日本語読めないって言うならアンタも一緒なんじゃない?」
「札立てたのは俺だ!」
「アンタが立てたなら余計に強制力なくない? …まったく、」
すっと女の目が冷たくなった。思わずぞっとする。相手は同じ中学生なのに、どうして。
「アタシの場所を勝手に占拠してんのがどんな奴なのか見てみようと思って来たのに、まさかこんな根暗なガキとはね」
 目の前がカッと赤くなった気がした。冷静であれば年齢なんてそんなに変わらないだろうと言えただろうに、ガキという単語に思わず反応してしまう。
「俺はガキじゃねえ!」
そうすることで自分がガキであるのだと認めているようなものだと、分かっているはずなのに。
「人のものを勝手に取っておいて自分のだって主張する奴を、ガキって言って何が悪いの?」
 視線が鋭すぎて、息をするのも忘れそうだった。
「ふざけるなよ。アンタのために世界が回ってる訳じゃないんだ」
あまりに飾り気のない、傷付けることを厭わない言葉に胸を殴られたような気さえする。正論と言えば正論のような気もしたが、そう感じたことがよりいっそう拓哉の頭に血をのぼらせる。
「てめえのために回ってる訳でもねえだろ!!」
「そうだよ?」
とぼけたように笑った女。
「そこを退いて。アタシは向こうに行きたいだけだから」
あと廊下は掃除しといてね、アタシの通り道だから。
 女の指差した先には、屋上に繋がる扉があった。

***

第二話 屋上からの空 

 気付いたら屋上、と呟いていた。女はどうでも良さそうにそうだよ、と答える。
「だからアンタが其処にいたら邪魔なの。分かってもらえた?」
いちいち頭にくる言い方をするのは性格なのだろうか、それともそれだけ今、女が苛立っているからなのだろうか。拓哉にはそうは見えなかったが、そうであれば良いのに、と思う。拓哉ばかりがこの突然現れた女に翻弄されているようで気に食わない。
「…俺はお前に指図なんかされたくねえ」
「あっそ。じゃあ蹴り飛ばして行くだけだからどかなくて良いよ」
一歩踏み出された足。
 目が本気だった。
 このままでは本当に踏まれるだろう、と判断して聞こえるように舌打ちをする。それから拓哉は身を引いた。
「勝手に通れよ」
「ありがと」
その時、初めて女が笑った。すっと拓哉の横を通っていく女からは、石鹸だろう、いい香りがした。眩暈がしたような心地になる。バタン、と閉められた扉から目が離せなくなって、
「別に、気になるとかそういうのじゃねえし」
言い訳がましく呟いて、
「少し、くらい…」
閉められた扉を、そっと、開いた。

 隙間越しに見た女の背中は先程のような圧はなく、ただ何となく寂しそうに見えた。こんなところに来る女だ、しかも今は授業中のはずである。何かしら理由があるだろうことに今更気付く。それにしても先程の威勢は何処に行ったのか、全く感じられない。
 女は黙って空を見ていた。空を見ている、それだけだった。他に何もしていない。其処に、女だけの世界があるようで。
「―――…」
「ん?」
女が何か言ったような気がした瞬間。
 ぎい、と音がしてそのまま前につんのめった。
「うわっ!?」
体重を掛けすぎた。屋上の扉は全開。顔を上げるまでもない。女はもうこちらを振り返っている。まずい、と思った。別に何も悪いことはしていないはずなのに、覗き見がバレたと言うか、何というか。女だって見られて困るようなことはしていなかったはずなのに、あまりに何か気まずい。
 女は拓哉が狼狽えて、視線をあちらこちらに走らせるのを見てから、ぷっと吹き出した。
「な、何だよ! 何笑ってんだよ!」
言い方が小学生じみている、とも思ったがそもそも拓哉はついこの間まで小学生だったはずなのだ。仕方がない気がする。
「だって、アンタ、あんまりきょろきょろしちゃってるからさ」
くすくすと笑う顔には先程のような嫌味っぽさはまったく感じられなくて、思わずどきっとした。いやいやいや、と首を振る。
「おいでよ」
一頻り笑ってから女は太陽の下から、呼んだ。
「…は?」
「だからおいでって。来たかったんでしょ?」
 屋上は女の領域のはずだった。元々屋上は学校のもので女がどうとか言う訳ではないのだが、それは分かっていてもあの言い方は部外者を排除するためのものだった。ガキと、拓哉を罵ったことなど嘘のように、本気で拓哉を蹴り飛ばそうとしていたことなど嘘のように。
―――お前だって、俺がどうなろうと、何とも思わないくせに?
それは疑念ですらなかった。知らない人間のことを心配してやれるほど、心を砕いてやれるほど、人間はきっと、世界はきっと、優しくない。
 手首の傷はまだじくじくと傷んでいた。制服が汚れる。
「んー…アタシがアンタに興味持っちゃったからかな」
それでも、今はこの女が、
「だからおいでよ。一人じゃつまらないこともあるし」
屈託なく笑う、この女が、
「二人っていうのは未経験だけど、試してみなきゃ分かんないでしょ?」
 何者なのか。
 それを、知ってみたかった。

***

20170903